昨年の9月からinstagramを開いたのは、ほぼ3回だった。
その間、なんか見なくちゃいけない気がしていたけれど、
見たいわけではなかった。
開かなくなり、快適だった。
(そもそも私は投稿するためにインスタグラムを始めていた身なので、今回は投稿しない場合のSNSとの付き合い方について記している。)
なんで、インスタを開かなかったかを考えてみた。そもそも、人の人生を見てそれが自分にとって、どんな意味があるのだろうかと思っていた。
ある種のコミュニティ形成であり、
交流の場なので、「元気にしてるかな♪」が見れるのが一番の大きなメリットかもしれない。
そしてそれ以上に情報収集の場として利用するメリットも大いにある。
兎角、SNSは娯楽を伴って情報を得るわけだけれど、
問題なのは、時間を搾取させる設計になっている。
アルゴリズムで、ユーザーが興味を引くように。
そのため、本当は別にもっと見たいわけではないのに、なぜか刺激されて見てしまう。
情報を得た=得をしたと錯覚してしまう。
そしていつの間にか見ないと損失があるようにさえ思えてくる。
これは当人が認識していなくても脳がそのように癖づいて、損失回避を行おうとしている。
そしてそれが中毒になっていく。
気づいたら無意識にアプリを開いて、10分以上見入っているなら危険である。
ユーザーは無料で情報を得たり/発信したりしていると思っているかもしれないが、実は人生の資産として一番重要な「時間」と引き換えに、それらをしている。
ユーザーが長くアプリに滞在してくれればしてくれるほど、
広告を見てもらえる機会が増え、SNSの母体は儲かるわけである。
私たちは、タダでSNSを使っていると思っているかもしれないけれど、
時間というお金では買えない資産を使いまくっている。
そしてSNSが普及したことにより、
人の生活や思想にとやかく言う輩が続出している。
アンチコメントじゃなくても、
バウンダリーという関係性を越え、
発信者に疑問を呈したり、教えたり、嫌味を言ったり、
的外れな愚痴をこぼしたりする、
自分勝手で人を不快にする暇で妙な自己認識の人が世の中に多く存在する。
賞賛や応援なら歓迎だと思うが、
わざわざ知り合いでもない人に自分の意見を吐くのは無責任で気持ち悪い。
私はそれを目にせずとも、そのエネルギーを敏感に感じてしまい、
それも嫌だった。これについてはまた別途記したい。
余談だけれど、「SNSなんて自慢の場」
「承認欲求の高いナルシストが投稿するもの」と
言っている人がいる。
それについて私は、「だから何?」と思う。
存分に自慢すればいいし、
承認欲求なんて生存欲求と同じくらい人間に普通にあるものなのだから、自然なことであり、あなたにもあるんだよ、と。
それを見て心がざわつくなら、向けるべき矛先は誰かの自慢や承認欲求ではなく、自分の本音が何であるか、である。
話を本論に戻す。
前述の通り、本来「本当は別にもっと見たいわけではないのに」、
というところがミソで、その時間があるなら、
私は・・・
ぼーっとしたい。
本を読みたい。
絵を描きたい。
文字を書きたい。
大切な人にテキストメッセージを送りたい。(私のメッセージは長いことで有名である。笑)
自分の講座やセッションのクオリティを上げることをしたい。
筋トレしたい。
音声配信の内容を考えたい。
気合や思いのこもったエネルギーの高い配信者の配信を聞いたり見たりしたい。
つまり、誰かの人生の一部を傍観するのではなく、
私は自分の人生を主体的に生きたい。
SNSは交流も重要な要素であるため、
いいねをしてもらってコメントをもらったら
自分もしてあげなきゃと思っていたし、
それが礼儀っぽいところがあ…る。
フォローしたらフォローバックする、
というのもその一つで。
でも私はこういうシステム化された偽の交流は不要だから、
これからもinstagramをそのようには利用しないだろう。
目についた投稿が好きだったらいいねをするし、コメントもする。
ただ私は純粋に、自分の一部を表現するためのツールの一つとして、
instagramと付き合っていきたい。
そしてそれに対して反応し、交流して下さる方がいれば、
もちろんウェルカムで喜ぶことは間違いない。
そしてきっとあなたの投稿も覗きに行くかもしれない。
ということで、これからもよろしくあでぃおす。
あ、ちなみにfacebookはアプリさえ携帯にない。