龍と私と信仰と。|「ついておいで」作品解説

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昨年の夏から、絵を描こうと思いつつ、描けなかった。

「ちょっと待って出てくるから」と言う感覚があった。
描きたいアイディアはあるのに、
それより先に描くべきものがある感覚があって、

なんだろう?と思っていた。

絵の先生からは、よく「描きたい描きたくないじゃなくて、描くの。
とにかくキャンバスに向かうこと」と言われてきた。
だからその間、絵本の題材を描いたりもして、
何度かキャンバスに向かったのだけれど、何も出てこず、描けなかった。

でもなぜか、焦らなかった。
私は、ちょっと待とうと思った。

👆滞在していたマンションの一室より。川幅がとっても大きいことが伝わらない…。

昨年の秋、大きな墨田川を見下ろす月島の超高層マンションに3ヶ月滞在していた時、
父方の実家(と、先祖代々が大事にしていた神社)の近くだった場所に自転車で度々行き、
思い出したことがあった。
同時にアメリカからのリバースカルチャーショックと、
苦痛を経た場所である東京に帰ってきたことで葛藤を覚えながら
私はオーシャンスプリングス(私が昨年の夏に滞在していたところ)での
日々を回想し、祈り、瞑想していた。

そしてその時というかその頃、
子どもの頃からきっと龍が私と共にいたことを思い出した。

子どもの頃、なぜか龍が好きだった。

竜と龍はどう違うのかと辞書を引いたり、
龍という字を書きまくったり、私の叔母(父の妹)から、
「あなたが男の子だったら、お父さんは龍星(りゅうせい)という名前をつけたがっていた」と言われたことを思い出したり。

そして私の先祖がいた地域も、父のお墓も、
弁財天と龍に縁深い場所であった。

私が2年前適応障害になって苦しんでいた時、
これからもっと直感や感性が鋭くなっていくような気が漠然としていた。

脳機能について学びわかったのだけれど、
精神疾患の人々の多くは五感が衰える。
詩的ではなく、実際にこの世界がセピアになったりモノクロになる現象が起こり得る。

私は、暗くなったモノクロの世界の中で龍を感じていた。

暗闇の中に真っ白く光る美しい龍。
荘厳な音楽のようでもあり、とってもいい香りを放つ存在。
威厳があるのに無邪気で、繊細で優しくて、でも大胆で力強い。
真剣だけど遊び心もある、そんな目には見えないエネルギー。
顔は見なかったけど、生き生きしていて、喜んでいて、輝いている。

そしてこれを絵にしたいと、思った。
これを描いてってことだ、と。

けれども、聖書に”りゅう”(実のところ漢字は龍ではなく、竜である)は、
悪の遣いだとか描いてあるので、
「クリスチャンは龍なんて描かない」
「龍神は偶像であり神ではない」と言う意見も聞いてきたこともあり、
描くことに抵抗があった。

でも結局のところ、私は人からどう思われるか、
いや、人がどう自分を勝手に裁くのかを気にして、
溢れてくるインスピレーションより、制作意欲より、
自分で作り出した「幻想の誰か」に恐れ、遠慮していた。

今思うと、馬鹿らしい。
芸術は全て、評価されるものだから、
批判だって受けるし、誤解だってされる。
誰がどう思おうと、
私は純度高く私を表現することが大事なのに。

私は過去に自称スピリチュアルリーダーと言う女性に出会ったことがある。
彼女は巧みに人の心を利用し、関わる人を不快にすることで不幸にしていた。
今思うと彼女はいわゆる低級霊(悪霊の部類)に惑わされていたのだと思う。

けれどもそんな知識はなかったので、
聖霊以外の霊は全部人間を惑わす悪いものと認識するようになっていた。
そういう教えも影響していた。

でも私は自分の感性、感覚、そして霊性に蓋をしたり、
感じなかったことにして嘘をつくのは、
自分を傷つけ、窒息するほどの苦しみであると散々実感してきた。

無意識のうちにいつの間にか
「宗教」をそうではない何かにする自分や人の愚かさを、
もう味わいたくない。

私は、人はみんなサイキックだと思っている。

多かれ少なかれ、筋力があるように、いわゆる霊能力がある、と。
なぜなら、誰もがスピリット、マインド、ボディを持って生まれてきているからだ。

スピリットのない人は、存在し得ない。
(ゆえに、スピリチュアルを否定できないし、
崇めることもできない。
筋肉を否定したり崇めることもできないのと同じように。)

スピリットこそが、ただニュートラルに本当の答えを知っている。
その答えとは、神が愛であり、愛が私たちにも注がれているから
私たちは神を慕う存在であると言うこと。

そしてこの源泉(スピリット)に繋がれば繋がるほど、
本来の自分として神やこの宇宙を経験し、自分を愛することができる。

私は、唯一の神を信じている。
一神教か多神教のどちらを信じるかという議論は
私からすると文化について話されている議題であり、
神はそんな文化的概念を凌駕する。

だから、多くの日本人が神々と崇めるスピリットの存在も素晴らしいと感じているし、
それらのほとんどを悪だとは到底思えない。
むしろ、日本を日本にしてきた大切な存在であり想いであり尊厳であるとみている。

そもそも、感謝よりもご利益を求め、崇め奉ることをしすぎることも、
祈りよりも念を込めてすがりすぎるのも、神々の側には何の責任もない。
それは人間の勝手な幻想と行いであって、神々の側からしたら、
そうして欲しいだなんて思っていないだろう。

本来、Divide(区別/分離する)のも
Judge(裁く)のも神の役割であって、人がするものではない。

なぜならば、神は統治/統合を願いそれを実践する存在であって、
「区別」するのには特有の意志や理由がある時だけだからだ。

聖書(神)はこう言っているからといって、
神の権限を人が安易に行使しようとするのは愚かである。

人はただ、神とその被造物である自然や人を
知恵深く愛する者として存在しているだけなのだから。

過去の関連記事→ 信仰とは何か。

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暗闇の中から白く光る龍は言った。
「ついておいで」

私は咄嗟に言い訳をした。
「忘れてたわけではなかったの。ただ…」

龍は笑って言った。
「大丈夫、全部わかってるよ。ただ、ついておいで」

龍は、音楽のようであり、アロマのようでもある。
荘厳で厳しく、繊細で優しい、澄んだエネルギー。
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