今の私にできること①~どん底と境界線編~

2年前の今頃。
すっごい具合が悪かった。
ある人と話したり、あることを話すとストレスで、文字通り体が震え出す症状があった。(あ、それとは別に私は昔からよく手が震えていることで有名ですが、病気ではありません。笑)

クリスマスの時に2番目の姉夫婦と食事をしていた時、姉に
「大丈夫?めちゃくちゃ元気ないじゃん。どこ見てんねん。目がうつろ。声低いし。」と言われた。
それに対して「あ、そう?色々あって。ははは」と答えたことは覚えている。
そしてお正月の時には、彼女に諭されながらポロポロと延々と泣いていた。
その時の私は、絶望感でいっぱいだった。
「あ、もう終わったな」と感じていた。
自分が年月をかけて信じて建て上げてきたものが壊れてもう直らない、いやむしろ最初の土台から間違っていたのかもしれない、何も残っていないどころか、自分にとってマイナスすぎることしかないと思うと悔しくて苦しくて怖くて、、、ただただ痛かった。

何よりも辛かったのは、例えるならば「親友が突然死んだ」のと同じくらいの深いそして強烈な悲しみがあったことだった。
(この話を私の失恋の出来事と誤解される方がいるのですが、一ミリも恋愛の要素はないんです〜。恋心が絡んでいたからそんなに苦しんでるんだと勝手に誤解しないでください〜。まじで。そこは守りたい私の自尊心!笑)

お腹を刺されて、激痛に耐えるためにうずくまり、歩くことはもちろん、立ち上がれないくらいの苦しさで、私の思考も感情も人生も完全に止まった。

心療内科で適応障害と診断されて、毎日毎日毎日毎日、ベッドで泣きながら寝ていた。(適応障害:原因のわかっている鬱症状のことを適応障害という。鬱病は原因がわからない病気。この違いをわからない人が多い。)

職場において主要で重要な部分を私が担っていたので、私が急に消えてさぞ困っただろう。
振込は私一人だけしか出来なかったし、重要なパスワードも私しか知らなかったし、総務関係の外部とのやりとりや、コミュニティの女性たちとのコンタクトを担っていたのも私だった。
その10ヶ月前に、ストレスによる腹部の激痛で、私がスタッフの給与の振込ができなかったことがあった。そしてその時、何かあった時のために、私は全ての情報を団体のリーダーに渡したのだけれど、、、困ったと思う。

なぜそうわかるかとえば、私のことを心配するよりも、「働いてください」「引き継ぎしてください」「〇〇を誰にいつまでにメールでいいから知らせてください」と一方的なメールが何通もあったからだ。
そのこともまた、私を悲しくさせた。

この経験によって、「この世界は、みんな優しくて親切で私を大切にしてくれる人に溢れている」という概念が覆された。
人間は、時に利己的で平気で人を見捨て、醜いものであることも非常にわかった。
我慢をし続け、働き続けた自分が可哀想で、何度も自分に謝った。
それ以上に、自分が立ち上げの一番大変なところを経験したこともあり、一定の実りを見るまで辞めたくないと思って働き続けた自分を大いに責めた。
「信仰によって」選び続けたつもりだったけれど、常に苦しかった。

私の仕事を一時的に引き継いだシニアのスタッフから、言わなくていい嫌味をメールで何度も言われた。彼の思いやりの無さはさておき、彼の立場からしたら無理もない。私の不在で急に雪崩の仕事がやってきたわけだから。
ただそれに対して、以前の私なら反論したり気分を害したり謝ったりしていただろうが、その時の私は彼がどう思おうがもはや完全にどうでもよかった。
というより、私のことや私に関わる真実を確かめもせずに、陰で誰が何を思おうと、嘘を伝えられようと、間違った解釈をされようと、もうそれを自分には変えられないし、誤解を解く必要もないと学んだ。
この一連の出来事は私を色々な面で変えたし、気づかせたし、目覚めさせた。
そのうちの一つは、境界線を引き切るということだ。ドライで冷たくなったように感じるけれど、自分が本当に大切な人や大切なことを大切にしていくことの方がはるかに重要で、その最たる人物は、他でもなく自分である。
境界線を引くことは、自分を愛していることを示す一つの重要な鍵であると実感している。

で、実はこのブログ、この後に長く文章が続いていたのだけど、長すぎたので分割する。笑
というわけで、続く。

2年間で私が学んだこと、(既出のブログを含む)
そして2024年の10月11月で整理したことを引き続き分かち合いたいと思う。

読んでくださる方がいたら、嬉しい。