欧米化されたキリスト教

日本はキリスト教とその文化を欧米から輸入し続けてきたと言っていいと思う。
というか、宣教師がやってきて(フランシスコザビエルfromスペイン)そこから日本にキリスト教が広がり始まるわけだけれど、そもそもキリスト教はユダヤ教が土台にあってそこから発展している。
だから、元を辿るとキリスト教はアジア発祥の宗教である。

旧約聖書を読むと日本の文化や価値観と近いところを私たちはたくさん見出すことができる。
(個人主義ではなく、グループ社会なところや、欧米以上に家長が尊重されること、遺産の分け方、家族の考え方、お風呂の意味や入り方、先祖や家系を重視する、食事の摂り方、幕屋に神に会いに行くスタイル、様々なものに神を見出す宗教が周囲にあったことなどなど)

聖書解釈や文脈化の仕方は、欧米の影響を色濃く受けていると個人的に感じており、そこにメリットデメリットを強く感じている。

多くの日本人は、神社仏閣が好きでその建物や思想を大切にしていこうとする風潮は近年強まっている。
先祖を大切にする民族でもあり、1年に最低3回はお墓参りに行く暦がある。
そして多くの人が神社に行ってお辞儀をし、手を合わせる。
この手を合わせる行為は、自分の中にある陰陽を一致させ、その両方を肯定している状態で、神の前に今いることを示している。

神社の正しい参拝の仕方は、
名前と年齢と住所を言って、感謝を述べる。以上。らしい。

私はてっきりみんな神社でお願い事をしていると思いきや、
「神様、私はここにあなたに会いにきました。いつもありがとうございます。〜〜をゆるしてください。きよめてください」
これだけ言うのが、本来の参拝の意味だという。(旧約聖書の幕屋や神殿と似ている。)
お賽銭も日頃の感謝を表すものであって、これも願掛け金ではない。
そして日本の神社には銅像的なものがない。(by神社ソムリエ)
代わりに鏡がある。これは自分の中に神があらわれるのだから驕らずに、謙虚に、神がみんなに福をもたらすのと同じように他者様のために生きなさい、と言う意味らしい。決して怒り続けたり、不安になり続けたり、自分の利益だけを考え続けないでご機嫌でいなさい、と。(by神社ソムリエ。ってか、その肩書きすごいな)

私はクリスチャンになってから、お墓参りに行くことは減ったし、父方の先祖や家族が大事にしていた神社に行くことも減った。偶像礼拝をして唯一の神を大切にしない行為を避けるべきとすごく教わってきたためだった。でもそれは、実のところ私が大切にしてきたアイデンティティを削っていたように思う。
聖書には、神は妬む神であると書かれている。偶像礼拝はするな、と。
けれど、唯一の神は、私があなた以上はいないと認め喜びを経験している中で、
自分が大切にしてきた場所や、私が自分のルーツを感じられる場所に行くなよ、そこの神社で手を合わせるなよとは言わないだろうと思った。
そんな浅はかな思いやりのないことを言うほど、神の心は狭くないだろうし、信頼してくれていると思っている。(人間でさえ、人が大切にしてきた存在を大切にすることは理解を示すだろう。)

なぜなら、私にとってそこの神は神ではなく、先祖に感謝をするシンボルであるだけだから。家を大切に思うように、神社を大切に思う気持ちがあっていいと思う。

神道と日本の文化と言語はかなり密接に繋がっていて、そこをちゃんと理解し尊敬しなけば日本宣教は偏り続け、これからも行き詰まり続けると思う。

この部分を実際に大切にしているクリスチャンとはあまり出会ってこなかったように思う。
その代わりに、そういう神は偶像(偽物)であって唯一の神は他の神々より優れていると声高に聞いてきたように思う。

排除したり否定したり隔てて分けるのではなく、
全てを統合し全てを調和で包括する存在が神であると改めて信じている。

そして私は2年前から昔のように、新宿にあるお墓参りにもよく行くようになった。
前述のブログにも書いたように、中央区に滞在していた時には頻繁に七渡神社(東京三大神社で有名な、富岡八幡宮の親玉)にもよく行った。

これからも、自分の背景にある文化や思想や歴史を大切にしていきたい。