下町生活(2024.10-11)

ブログを書くのも久しぶり。
…インスタグラムは開いてさえいない。(FacebookはアプリもiPhoneの中にないので、論外。)
私のソーシャルメディアとの付き合い方についてはまた別途記したい…

10月と11月の2ヶ月、訳あって中央区に滞在していた。
それが、本当に本当に2024年とこれまでの数年を整理して再解釈するのに
とても必要な時間で、毎日がとても充実していた。
秋の暖かい日差しを感じながら、隅田川沿いを散歩したり、
豊洲から見る最高な夜景を堪能したり、
ひたすらジャーナリングしたり、
自転車で何度も銀座に行ったり。(自転車に乗る時は、高校生の時と変わらず今も爆走危険運転です。)

私の先祖は江東区は深川の近辺で栄えた材木商だった。
叔母の話によると、「5代前まではちゃんと遡れるから、多分少なくとも7代前から深川だったと思うよ」と。
こういう人、実はとっても少ないと思う。生粋の江戸っ子(3代前から生まれ育ちが東京の城下町の人)に、私はこれまで多分ほとんど遭遇してない。

チャキチャキの江戸っ子 の、チャキチャキの意味とか
粋で稲生 の意味とか
べらんめえ調 とかの意味を知らない友人が多くて、逆に私は驚く。
(私の祖母は、おしとやかな江戸弁を話す人だった。父と叔母はめちゃくちゃ江戸前口調だった。そして私の二人の姉、特に2番目の姉はそれを引き継いでいる。江戸前口調とは、軽快かつ洒落ている口調でカジュアルに話すのが好きで、冗談も皮肉も愛嬌を交えてはっきりと言いつつ、口が悪い。後腐れなく相手を不快にさせないけどぶっきらぼうな話し方。)

江戸時代、東京の街は材木によって栄えたので、鈴木の先祖は
現在の木場駅の近くにある土地をかなり持っていたという。
中庭のある大きな邸宅に住んでいたのだそうだが、祖父の代で大幅に縮小した。
(建築物と紙の普及のために、多くの材木が使用されていた。隅田川は東西南北から集まる木々を集めて、また送る役割に適していた。)

余談であって、自分のことではないので自慢にするつもりはないけれど、
父は当時出始めたばかりのオムレツやハンバーグやロールキャベツといった洋食を子供の頃から食べていたらしい。
家にはお手伝いさんもいて、裕福な家庭だった。
祖母は子供の頃、上野駅の時計台が自分の部屋から見えていたことが自慢だったという。学校に通う女性が少ない中で、女学校に通うお嬢様だった。(当時、上野駅は東京で最も乗車率が多い、ハイカラな駅として知られていた。)

私にとって、DNA的に縁深い深川から、すぐ近くである月島に滞在できたことはとても感慨深かった。
現在、祖母の家の目と鼻の先のアパートに親しい友人が住んでいて、何度もそこを自転車で通った。

父が亡くなった後も、祖母の家にはしょっちゅう行っていたし、
私は東京で最も大きな神社の一つ、富岡八幡宮の氏子で、その隣の七渡神社にも初詣は必ず行っていた。


自分が学生の頃、近くの学校に通っていたこともあり、そして成人してからも自分の節目にはここによく来たことを思い出していた。
いつ行っても参拝する人はとても多くて、日本人はみんな本当は神を知っていて、求めていて、信心深いな、、、と思った。

自分のルーツを思い出すことは、とても大切なことだと思う。

数年前、友人の成人した息子が交通事故で脳に大きな損傷を負った。
彼女はこう教えてくれたことがあった。
「子どもの頃のことを思い出すことが、脳の癒しの回復に大きく影響すると医者が言っていた」と。
日本で子育てをしたアメリカ人の彼女は、リハビリ期間の息子と日本に「帰国」し、
彼の育った月島で少しの時間ゆっくり時間を過ごしていた。
植物人間になると宣告されていた彼は今、奇跡的な回復によってアメリカで大学生活を楽しんでいる。

子どもの頃の私の中にある「深川の記憶」は、エンゼルという近所のスーパーでお菓子を買うことと、富岡八幡宮とトイレの金木犀の香り。
そして何より覚えているのは、祖母がいつも若くして亡くなった父の話をしていた。
「隆がね〜」と始まって、そのあとは何を話していたかなんて覚えていないけれど。
それを目を潤ませて熱心にちゃんと聴く母。
世代があるかもしれないけれど、良くもまあ、義理のお母さんの変わらない話をあんなに母は聞けたものだとつくづく思う。笑

話があっちこっち行ったけれど、この2ヶ月の間、
脳が癒された期間に得たこと、気づいたことも書いていきたいと思います。