怒りは善。

「普段、怒ることってよくあります?」
この質問に、あなたはどう答えますか?

基本的に人って、イライラすることはあっても、
怒ることって少ないんじゃないかな?と思う。
時々、しょっちゅう怒ってる人もいるけれど、
それはそういう性格というか、その人にとっての通常運転なのだと思う。

怒りは第二感情で、第一感情は悲しいとか苦しいとか、
理解されたかったとか大切にされたかったとか、
そういう感情が派生して怒りを起こす。(と、言われている)

「怒る」って、気持ちのいい感情じゃないけれど、
本来の自分を取り戻すためには、必要な感情でもあると思う。
特に、普段あまり自分の意見を言えなかったり、人を優先する傾向の強い人にとっては。

悲しいとか苦しいとか、そういう暗いトーンの感情の中にいる時は特に、
「おりゃー!」と怒ると力が湧く。

私が適応障害で一日中寝込んで休職していた頃、
その団体の代表や状況と戦っている同僚たちからメールがやたら届いていた。
「読まなければいい」と思いつつ、私は自分に責任があると思っていた節もあり、
メールを開いてしまう習慣もあり、全てに返信せずとも読んでいた。

あるメールを開いた時、私と長年一緒に働いていた代表である友人が、
「さとみさんは彼女の父親との関係に問題があるから、
彼女は今、適応障害になっている。僕は関係ない。」と書かれている一文を見た。

私は、悲しみや怒りを通り越して、
ベッドの上で笑ったことを、これから先も忘れないだろう。

キリスト教において、神様は「父なる神」という位格を持つ。
自分の父親との関係が素晴らしければ、
父なる神との関係も健全に築かれやすいと言われることも多々ある。

私は父親の存在を覚えていない。上記の考え方に柔軟性がなければ、
私のような人は「父なる神」を信頼し、健全な信仰を育むのは至極難しいという結論になる。
つまり、彼は私の体調不良は私自身に問題であって、
自分のリーダーシップに関係があるわけではないと主張していた。
私が彼の人格やリーダーとしての問題を散々指摘していたにも関わらず、
人の知らないところで、その人の死んで何十年も経っている父親を引き合いに出すとは、
全く脈略もなく、同時に失礼極まりない。

この時、私は前述の通り、現状にシクシク悲しみ寝込んでいた。
しかし、適当で的外れなことを言われたことで文字通り憤慨し、一気に火がついた。
このまま黙って見過ごすわけにはいかない。
自分の尊厳を守らなければと奮い立った。

当時、リーダーを告発して戦っていたスタッフたちは、
私の発言に一番威力があることを知っていたので、私に登場して欲しかったと思う。
その気持ちはすごくわかる。
けれど私はもう気力がなかった。あのメールを読むまでは。

あの時、怒りが爆発しその後、
理事や代表の母国の人たちとのやりとりに、自分が出ていった。


けれど、あの怒りをただただ自分のために使えばよかったと、今思う。
状況が変わると信じていたから、
自分が出番だと思って頑張ったけれど、非常に疲れただけだった。

怒ることは、悪いことじゃない。
怒りがきっかけになって、活動意欲を起こさせる。
怒りはその前段階のモヤモヤを晴らす力もある。

悲しみに浸り続けるより、怒りを原動力に変えて生きる方が
ずっと気楽になれる。
そしてその怒りは自分の益になることに向けるエネルギーとして発散されるべき。


人が怒るのを抑え込んでいるのを見ると思う。
その怒り、抑えなくていいよって。ただ自分のために。