人生の法則の中にある復活の希望

すべてが終わり、壊れたと実感する時を多かれ少なかれ誰しも経験する。
壊れて失ったものが、自分の腕の中で大切に育んできたものなら、
その代わりに大きな悲しみを抱かなければいけない時間がある。
その時間は、人や物事によって違う。
何分か何時間かで解放される人もいれば、何ヶ月か何年も時間を要する物事もある。

あるいは、もうどうでもいいはずなのに、何かががきっかけで思い出すこともある。

「手放せばいい」とはよく言ったもので
それが自分の意思かどうかは関係なく、
一度抱いたものを引き剥がすのは難しい。
疑問や悲しみが湧き上がり、感情の整理が間に合わず、
答え合わせに苦しむのである。

一生元に戻らないと理解しているにも関わらず、手放すことがなかなかできない。

なぜか?

(それは大切な人の急死であっても、憎むような事件であっても、)
苦しんでいるにもかかわらず、その感情や経験、
あるいは関係を手放したら、大切な自分の一部を失う気がするからだ。
だから痛いしこわい。
本当はそんなことはないのだけれど…。
むしろそれを失った方が自分らしく身軽になれることがほとんどかもしれない。

脳は習慣に依存/帰属する習性があるので、そこから変化することを決めるのは一般的に難しい。
でも、このような絶望的な大きな変化のことを「強制終了」と言って、
「もうその生き方/考え方をやめなさい」という自由がきたサインだと謳う人は昔から多い。

大ピンチこそ、大チャンス。

そしてこれは本当にそうだと思う。
自然の摂理というか、一般的な恩恵として、多くの人がこの人生の法則を知っている。
それが真実であるなら、いつまでも悲嘆に暮れているのはタイムロスでしかない。

ただ、そうやって自分や周囲が「タイムロス」と思っている時間こそ、
貴重なリカバリー期間であり、自分を取り戻して新しいチャプターを開くために
必要な調整時期なのだと思う。

不死鳥は、自ら炎の中へ死に行き、もう一度生まれる。
燻っている炎ではなく、ごうごうと燃える炎の中で死に絶え、
自ら卵の殻を破り、弱々しくけれど大胆に大きな翼を広げて生まれる。

私たちは「自分の意思」とは思っていなくても、「このままじゃダメだ」という時、
物理的には外的要因(自分の望まない道筋)によって、
しかしある意味で自ら望んで、燃え盛る炎の中に突っ込んで死にに行くのかもしれない。

そうやって軌道修正しなければならないハードな道を通った人は、
必ずその人なりに復活し大成すると、多くの経験者は言う。

知人の東洋算命学の博士曰く、
「人生で深い谷を経験する人ほど、その分突出して風に乗って舞い上がる時を迎える。
逆にアップダウンのない、平坦な人生の人もいる。
けれど、それはそれで退屈かもしれない。
これは単なる占いではなく統計学的に、人生にはそのような法則がある」と。

創造美の思想(本来この世界は美しく、戦争などは間違っている/悪であると、
自然と思いが湧き上がる)と同じように、
復活の希望は、私たちのDNAの中に組まれているのだと思う。

神様が人を創ったのだから、
神の法則としてのドラマが人生にあるのは、至極理にかなっている。

だからこそ神を知り信じる者は、

癒えない傷はなく、明けない夜はないことを
身をもって経験しながら、神を立体的に喜ぶ者に
造りかえられていくのだろう。