ある人がこう言っていた。
「高校の同窓会に行ったら、それぞれに割と壮絶な人生を過ごしていたのがわかった。それで、自分は幸せだなと思った。DVにもあったことがないし、苦しんで離婚してシングルマザーになったわけでもないし、借金で大変な思いをしたこともないし、壮絶な病気や事故を経験したわけでもないし、すごく幸せだなって思った」と、自慢げに話す表情は、勝ち誇っているようにも見えた。
私は思った、この人にとって幸せとは平凡かつ物質的に満たされて、可もなく不可もなく生きることなのだな、と。
起きる出来事や、自分が手にする(あるいは失う)ものによって「幸せ」をはかるのは少し浅はかだと思う。
そして、幸せというものは、人と比べるものではないから、DVにあっていようが病気や事故を経験していようが、苦しんだ末シングルマザーでいようが、借金があろうが、幸福度が高い人はたくさんいる。というよりむしろ、そういうことを経験してきた人だからこそ、本当の意味での幸福度は人より高い人が多いように思う。
人間としての豊かさや、しなやかな強さが備わっていて、ゆるすとか乗り越えるとかいうことを理解しているからこそ、養われる感受性もあるのだと思う。
私の思う健全な幸福の価値というのは、「社会(親と子という小さなコミュニティも含む)の中で感謝され、感謝する」というエネルギーの交流が生み出されている状態であると思う。(ちなみに感謝という感情は、この宇宙において最高最強の周波数を放つという。)
SNSが普及し、容易に不特定多数に対し、自分の容姿や持ち物、時間の使い方や思想発言、仕事の内容、家族や友人などの人間関係などを通して、人生の豊かさや魅力を表現する時代になったと思う。
だから安易に人は「この人幸せそう」と思いやすいし、そんな人に対して憧れを抱くのだと思う。わかりやすいから。
けれども、その人がどんな背景を持っているかはわからないどころか、そこにある幸せっぽいものというのは、移ろいやすい刹那的(極めて一時的)なものであることがほとんどではないかな。
幸せの基準をこういうものに乗っ取られてはいけないと、私は思う。
自分が幸せだと感じるならそれでいい、という意見もあるし、私もそれに対して異論はない。
幸せはいつも自分の心が決める byみつを に、同意である。
けれども、「起きた出来事」「持っているもの」「自分の現在の状態」(英語にすると全てhaveやgetに集約できる)に、真実な幸せの動機を見出すのも違う気がする。
もし今、何かの理由で幸せを感じられない人がいるとしたら、自分にできる小さなことで感謝されたり、自分に起きた小さなことに感謝してみるといいかもしれない。
感謝の交流のダイナミクスに入っていく時、私たちは、本当の豊かさや喜びから真実な幸せを感じることができるだろう。
私自身、すごく恵まれているのに「全てに感謝できない時」を経たからこそ、今改めて感謝することの大切さとその根源の大きさを想う。