苫米地英人氏(脳機能学者)の著作を読んだ。
人間には誰しもスコトーマ(=心理的盲点/盲目さ=本当は見えているはずなのに意識/興味が向かない、見えてない)があるという内容から始まる。
このスコトーマは、当人の経験や思考グセからくる思い込みや幻想から発端し、事実を捻じ曲げたり誇張したり過小評価したり、情報の取捨選択を勝手に行う。
現実や事実は同じでも、解釈の違いによってその出来事の意味合いが人によって変わるのはそのためだ。
そしてそのスコトーマをズラさない限り、人は成長が遅くなり、機会損失をしたり、落とし穴に落ちるような経験もしかねないのだという。
ではスコトーマはどうやってズラすことができるのかというと、コンフォートゾーンから出るというのが重要らしい。
(コンフォートゾーンは、文字通り自分が居心地がいいと感じる環境、慣れ親しんだ関係、安全だと認識できる心理的範囲のこと。自分に都合のいい生ぬるいものだけでなく、強みを最大限に発揮できる場も、これに当てはまる。)
未知の世界に入る時、再度自分は何者であるかを認識しなおし、そして周りにそれを表明することは、脳の活動にとって非常に刺激的であり、自分を認識する(いわゆる自己愛に通じる)には大切なプロセスであると言える。
面白いことに、スコトーマのほとんどが欠点や弱点によって生まれるのではなく、長所や強みやから生まれる。スコトーマによるビリーフ(信念)が、自分にとって安心や安全を感じながら(それは、一般的に誰もが安心安全であると支持するものではなくても)成功していく機会を作ることもあるのだという。
著書の中に堀江貴文氏がなぜ逮捕されるに至ったかという話があった。堀江氏は回避できたはずのことを周りから散々指摘されていたらしい。けれども、「自分は有能で正しい」というスコトーマが彼をワンマン経営者に至らしめ、結局盲点をつかれた結果監獄送りになったという例話があった。
著者は、このスコトーマをズラすときに、謙虚さは必要ないと言う。ただ客観的に一歩引いて現実と自分の関係、周りの状況を見ることでコンフォートゾーンからいつも離れる意識をし、実際に勇気を持って少し離れるようにする、と。でも心理的に考えて、その行為はまさに「謙虚」であるということが鍵だとわかる。
正直なところ、本当の意味で謙虚な人というのはなかなか出会わない気がする。(自分が謙虚じゃないからか?!)
歳を重ねるほど、謙虚っぽい人はいるのだけれど。「自分なんてまだまだです」みたいに、ただ自己卑下するのでもなく、わざと相手を立ててペコペコするのでもなく、本当に等身大のままで謙虚な人が最も強い。
謙虚でいることと、卑下することどう違う?
謙虚でいることは、自分を的確に知り、優越感にも劣等感にも浸らずにどこにいても誰といてもそのままの自分でいられるということ、だと思う。
謙虚でいるとき、人はリラックスした状態でもっとも勇敢になれる。
なぜなら、虚栄心も恐れもなく、ニュートラルな心で柔軟に相手や物事に対して客観的にチャレンジできるから。リラックスした状態の時、人は最大限の力を発揮することができると言われている。(スポーツの世界や音楽の世界では通説ではないだろうか。。。)
私の中に長らくあったスコトーマは、自分は何かをしているから/人の役に立てるから/必要とされるから価値があるという根深い思想だったように思う。有能であれば、多くの人の役に立てる、だから頑張るみたいな不毛のサイクル。
でもそうじゃない。
何もできなくても、役立たずでも、必要とされなくても、人(私)には十分に価値がある。
もし自分が交通事故にあって、本当に今と全く違う生活を送ることになったり、何か病気によって人の役に立つどころか人がいなければ生活することができなくなったりしたら、すぐにそう思えるほど自信はないけれど。。
でも、このスコトーマに隠れている真理は、「あなたは何もしなくても愛されているし、愛されていい存在である」ということだ。
この真理を当たり前のものとして傲慢に捉えるのではなく、謙虚に信じ、ここに立ち続けたい。その瞬間の私たちはもっと自由に、もっとリラックスして、もっと勇敢になれているはずから。
あなたのスコトーマは何ですか?